無音の『シーン』は「マンガ表現」?

以下の記事を読みました。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080826/edc0808260809004-n1.htm

「無自覚の刷り込み」って煽り過ぎではないでしょうか。という事はまず置いておくとして、次の部分はとても気になりました。

吉村さんは「何も音がしない状態を『シーン』と言っていませんか。無音だから『シーン』という音もないはずです。私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」と指摘する。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080826/edc0808260809004-n2.htm

「マンガ表現」というのが一体何であるのか良く分かりませんが(マンガに影響された表現、程度に捉えておけば良いのでしょうか)、『シーン』という表現をもって「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」と言って良いのでしょうか。これは大いに疑問のあるところです。例えば幸田露伴の「雁坂越」には次のような一文があります。

陽気な陽気な時節ではあるがちょっとの間はしーんと静になって、庭の隅(すみ)の柘榴(ざくろ)の樹(き)の周(まわ)りに大きな熊蜂(くまばち)がぶーんと羽音(はおと)をさせているのが耳に立った。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000051/files/3508_14080.html

幸田露伴は無意識にマンガ表現を使っていたのでしょうか(しかも http://uraaozora.jpn.org/rohannovel.html によれば「雁坂越」の初出は明治36年5月だそうですよ!)。ただしこの場面では羽音は聴こえているので正確には無音ではありません。そこで、無音であることが確かな場面における『シーン』の使用のみが「マンガ表現」であるという主張の場合、『シーン』を例として「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」と言えるかも知れません。

では次の例はどうでしょう。海野十三「新学期行進曲」(この作品はラジオドラマの台本だそうです、1938(昭和13)年9月30日放送)より引用します。

一同、たちまちしーんと静粛(せいしゅく)になる(間(ま))

http://www.aozora.gr.jp/cards/000160/files/43230_18251.html

これはそれまで騒がしかった中学生達が先生の登場で静かになる場面です。完全な無音とまでは断定できませんが、明確に他の環境音を確認できませんからこの場面はほとんど無音と考えて良いかと思われます。

というわけで、海野十三は無意識にマンガ表現を使っていたのでしょうか。

他にも「しーん」という擬態語は色々その使用を確認できます。青空文庫とっても便利ですね!ありがとうございます!

site:www.aozora.gr.jp しーん - Google 検索

擬態語「しーん」はマンガを云々言う前に文学作品に多く確認できるのですから、これをもって無意識な「マンガ表現」の使用を論じるのは無理があります。無意識云々言うのであれば、むしろ「私たちは無意識に文学表現を使っているのです」と言うのが正しいだろうと思います。これだと途端になにも問題のない話になるでしょう。記事のタイトルだって「文学 無自覚の刷り込み 子供の意識に大きな影響」に変えちゃえば、ほら、なんかちょっとイイ話みたいな?

もちろんマンガに負の部分だけがあるわけではない。芸術性は世界的に評価が高く、歴史をマンガにし、理解しやすくした本も好評だ。問題は、子供自身が自覚なしに、マンガの感性を受け入れてしまうこと。質の悪いマンガが子供の感受性に影響する可能性も排除できない。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/080826/edc0808260809004-n3.htm

同様にして「マンガ」を「文学」に置き換えると次のようになります。

もちろん文学に負の部分だけがあるわけではない。芸術性は世界的に評価が高く、歴史を文学にし、理解しやすくした本も好評だ。問題は、子供自身が自覚なしに、文学の感性を受け入れてしまうこと。質の悪い文学が子供の感受性に影響する可能性も排除できない。

そうそう、質の悪い文学もあるよね!自覚のない子供の感受性に影響する可能性も排除できないから問題だよね!

という、なんだか当たり前の話になるので「無自覚の刷り込み」というのは煽り過ぎだと思いました。人間どうせ生きているうちに色々なものを刷り込まれてしまうわけですから、マンガの影響だけを過大にして取り立てる必要性はないと思います。

ちなみに、幸田露伴の「雁坂越」における「しーん」の使用は結構古い方みたいですね。

静寂を表す擬態語の「しん」「し~ん」をはじめに著した作家の名前とその... - Yahoo!知恵袋

の回答には、

また、文学作品では内田百輭の『山高帽子』という小説に「しんとしてゐる」という表現があるそうです。
これが初めての用例かどうかは定かではありませんが。

とありますが、「山高帽子」は http://uraaozora.jpn.org/uchidayama.html によれば初出が「昭和4・6」らしいので、これよりもずっと古いことになります。もっと古い用例をご存知の方はいらっしゃいますでしょうか。どこまで遡れるんでしょうかね。

追記

はてなブックマークで大変に有益な情報をたくさん教えて頂きました。皆様ありがとうございました。

「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」の真意を考えてみました

まず id:kuzan さんの新聞のまとめ不用意説。

吉村氏にはhttp://www.nekomatsu.net/results/paper_pdf/komatsu_kiyou04_paper.pdfもあることを考えると、新聞のまとめが不用意なのではないか。

私も、記者が煽ってるだけじゃないのかな、と予想しています。だって研究者が迂闊なことをべらべらとしゃべるわけがないじゃない!と信じたいところです。特に「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」の前にはいくつかの発言が省略されているんじゃないのかな、と思います。「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」は本当に『シーン』を例としていたのかが疑わしいところです。

ただ、色々と考えてみても、やはり「マンガ表現」という言葉の意図は分かりません。これを「マンガにおいてなされる表現」と考えると、誰もがマンガを書いているわけではないのですから、その表現を「私たち」が直接使うということはとても考え難いことです。なのでこれは「マンガにおいてなされる表現に影響された言語表現」ではないかと考えたのですが、そういう典型例を知らないので「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」が実際どういうことなのか想像するのが困難です。

教えて頂いた論文「マンガに見る聴覚情報の視覚的記録」には、

現代日本において,最も頻繁に擬音語・擬態語が用いられる表現形式の一つは,マンガであろう。そこには多種多様な擬音語・擬態語が飛び交う様子を目にするはずである。これらのマンガにおいて視覚化された音を,マンガ・コラムニストの夏目房之介は『マンガの読み方』(宝島社,1995年)の中で,もはや擬音語・擬態語・擬情語を包括する用語である「オノマトペ」の範疇には収まらないという理由から,別の造語として「音喩」と名付けた4)。
 同書ではこの音喩の具体例や効果が述べられているが,現代日本に生きる私たちの思想や価値観がどれだけマンガから影響を受けているのかを知りたい私にとって,音喩は格好の素材である。現実世界では瞬時に消えゆく運命でありながら私たちの聴覚に記憶される「音」たちは,画と文字の組み合わせによって視覚的に記録されるマンガにおいて,どのように描出され変換されるのか。たとえば図−1の「シーン」という音喩について考えるならば,いつどこに登場し5),いつのまに私たちはこれを「音の無い音の擬音語」として読み解き・共有してしまったのか。また,日常生活において静けさを感じる際,たしかに私たちの耳には「シーン」という音が聞こえてこないか。あるいは,「音の無い状態」が,なぜ「シーン」であり,「ムーン」や「ガーンでは代替不可能なのか。逆に,なぜショックを受けたときの音喩は「ガーン」なのか。つまり,各音の場面に連動した音喩が存在するという仮説が成り立つのである。

とあります。「現代日本に生きる私たちの思想や価値観がどれだけマンガから影響を受けているのかを知りたい私にとって,音喩は格好の素材である。」と書かれているので、「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」の具体例を音喩と考えたいところですが、音喩はやはりマンガを描く人でなければ直接使いませんので、「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」の実例と考えるのは困難だろうと思います。

ここまで書いていてふと気付いたのですが、ひょっとして「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」の「使っているのです」という部分の意図は、「いつのまに私たちはこれを「音の無い音の擬音語」として読み解き・共有してしまったのか。」という場面解釈のことなのでしょうか。そう考えると「私たちは無意識にマンガ表現を使っているのです」というのは、私たちはマンガにおいてなされた音喩『シーン』を無意識に擬態語「しーん」であると読み解いているのです、という話になります。これなら少なくとも私には納得できるものとなります。だからこの後にのび太君の話につながっていくということでしょうか。

また無自覚の「刷り込み」で、子供がマンガの登場人物をモデルに他人を評価しているのではと、吉村さんは危惧(きぐ)する。

これはつまり、現実場面の解釈をマンガにおいてなされる表現を利用して読み解こうとする傾向や可能性があるかもよ、という話であろうと思います。でもやっぱりそれ、言語表現によってなされる文学の場合と違いが分かりません。どうしてそういう現実解釈の影響が「マンガ表現」によってなされたものに注目しなければならないのでしょう。そういう話なら、あらゆる表現メディアについても同様に検討する必要があろうかと思います。それともなにか特筆すべきようなマンガにおける場面解釈の特徴があるのでしょうか。

「マンガのヒーローは標準語を話す」「少女マンガでは白人のような人物が多い」など、マンガ独自の“文法”がある。「外国人から『何で日本のマンガは日本人でないような人がヒロインなのか』と嘲笑(ちょうしょう)されたこともある。キャラクターのあり方が、子供が他人を評価する際の先入観となっていると思います」と吉村さんは話す。

これがその特徴にあたるのかな、と思ったのですが、挙げられている例って文学においてもあまり変わらないのではないかと思います。小説の登場人物も大概典型的な日本人像からは外れていますからね(とか言うと、その「典型的」ってなんだよ、という話になって、結局あらゆる場面解釈なんて何かの影響を受けてんだからどうしようもないじゃないのさ、と人生を嘆くしかない状況になるのではないかと思います)。だから、こういう話をまだ歴史の浅いマンガのみを代表として語ろうとするのは、個人的にはあまり賛成できません。

とか書いても、後半はもう100%想像に過ぎませんから、外してたらごめんなさいというかとっても恥ずかしいところです!

擬態語「しーん」について

id:yumizou さんが擬態語「しーん」について日国オンラインで調べて下さいました。

日国オンラインによると,俳諧・毛吹草〔1638〕の例がある。ただし語形は「しんと」。

また id:m-naze さんが教えてくれた記事にも同様の指摘があります。

絶望書店日記 手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はウソ(なお 絶望書店日記 手塚治虫が無音の擬音「シーン」発明はホント もあわせて読んでおいた方が良いと思います)

というわけで「しんと」なら江戸時代まで遡れちゃうみたいですね。なんだか安心しました。

さらに追記

id:y_arim さんからコメントを頂きました、ありがとうございます!特に

つーかあの記事のタイトル「マンガ 無自覚の刷り込み 子供の意識に大きな影響 」としか書いていないわけですけれども、なんでそれを「悪影響」と捉えてしまったひとがあんなに多いのか不思議でなりません。

http://d.hatena.ne.jp/keita_yamaguchi/20080826/1219749878#c

の部分について興味深く思いましたので、考えてみました。

「可能性も排除できない」はずるいと思います

記事を「悪影響」の観点から捉える人が多いのは「問題は、子供自身が自覚なしに、マンガの感性を受け入れてしまうこと。質の悪いマンガが子供の感受性に影響する可能性も排除できない。」の部分のせいではないかと考えます。マンガの積極的評価についても言及されているので、悪影響だけがある、と述べられた記事ではないことは確かですが、ことさらマンガを取り立てて述べられているこの部分に関しては私は記者の意図にあまり良いものを感じません。作品の質と悪影響も決して自明ではない時点で子供をもちだして「可能性も排除できない」と恐怖を煽るのは公平な書き方ではないと考えます。

むしろ質の良い作品こそ影響を与えうるので危険かも知れませんよね。マンガの例は出せませんが、例えば藤村操の「巌頭之感」とかどうでしょうかね。遺書だから文学作品とも言えないのかも知れませんが、あれはなまじ質が良かったからこそ広く影響を与えたと考えることだって出来ます。

「無自覚の刷り込み」は何が刷り込まれているのか

また、私は記事にあるマンガの「無自覚の刷り込み」という言い方に関しても疑問です。実際のところ吉村さんが「刷り込み」という言葉を直接使った形跡はないので(「自然とマンガを読む能力が身につく」としか言ってないですよね)、この用語の使用も記者の飛躍なのではないかと想像しています。たとえコマ割りの理解などマンガを読み解く能力を身につけることが無自覚であったとしても、「問題は、子供自身が自覚なしに、マンガの感性を受け入れてしまうこと。」のようなマンガにおいて展開されている物語の受容が無自覚であることは自明ではないはずです(私は子供というのは他者が提示した物語を無批判に受け入れる程馬鹿ではないだろう思います)。記者は「刷り込み」という言葉を敢えてマンガ文法の把握と物語の受容の両方にひっかけようとしているように思います。

まとめ

私はこの記事はマンガ研究を紹介する体裁をとりつつ単にマンガに対する恐怖を煽っているだけのように感じました。「無自覚の刷り込み」の言葉が巧みに用いられていてマンガ研究そのものと記者の主張「問題は、子供自身が自覚なしに、マンガの感性を受け入れてしまうこと。」を思わず混同してしまいそうです。これではマンガが好きな人は反発するだろうし、マンガのことを良く知らない人は怖いよね怖いよねって言うしかないでしょう。この記事は色々な誤解を招きそうで不幸の元だなぁと思いました。