「築く」は「きづく」でも大丈夫?
先日/.Jでとってもどうでもいいやり取りをみつけました。
http://slashdot.jp/comments.pl?sid=404610&cid=1356956
Anonymous Coward : 08-06-05 11:42 (#1356956)
>新しい10年をきづくOS「きづく」を漢字変換すると
×築く
○気付くということなので、つまり「新しい10年を気付くOS」なのですね。
という茶々から始まりまして、
Anonymous Coward : 08-06-05 13:22 (#1357054)
「きづく」でも誤りではない。(http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C3%DB%A4%AF&kind=jn&mode=0&base=1&row=0)
という指摘が入り、それに対してさらに
Anonymous Coward : 08-06-05 15:01 (#1357130)
現代仮名使いでは明確に誤りですが
という主張が続きます。
なんだか#1357130の人はとっても自信満々なのですが、本当に「築く」は「きづく」ではいけないのでしょうか。というのも、私の手元(Ubuntu 8.04のUIMなSKK)では「きづく」で「築く」に変換されちゃうからです(追記:これを根拠としているわけではありません)。しかも「明確に誤り」というのであれば、わざわざgoo辞書へのリンク貼った#1357054の人の立場はどうなってしまうのでしょう。まぁとってもどういい話ですが、気になるので検討してみました。
まずgoo辞書を確認してみます。goo辞書の実態は三省堂の「大辞林 第二版」で、見出しには「きず・く きづく 2 【築く】 」とあります。じゃあ「きづく」でもいいんじゃないの?と思うわけです。しかしこれが現代仮名遣いとは限らないのかも知れません。そこで凡例を確認すると、
見出し
一.
見出しの示し方
(1) 見出しは原則として「現代仮名遣い」の方式によって太字のカナで示した。
とあり、原則現代仮名遣いであるはずなので、きっと「きづく」も現代仮名遣いであろうと期待してしまいます。でも「原則」ということは例外もあるかもよー、ということなので、これだけでは分かりません。#1357130の人は「明確に誤り」とまで言っているので、もしかしてこれが原則から外れた例外であるのかも知れません。そこで内閣告示「現代仮名遣い」を確認してみました。
「第2(表記の慣習による特例)」における「5 次のような語は,「ぢ」「づ」を用いて書く。」には次のようにあります。
なお,次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。
例 せかいじゅう(世界中)
いなずま(稲妻) かたず(固唾*) きずな(絆*) さかずき(杯) ときわず ほおずき みみずく
うなずく おとずれる(訪) かしずく つまずく ぬかずく ひざまずく
あせみずく くんずほぐれつ さしずめ でずっぱり なかんずく
うでずく くろずくめ ひとりずつ
ゆうずう(融通)
[注意] 次のような語の中の「じ」「ず」は,漢字の音読みでもともと濁っているものであって,上記(1) ,(2)のいずれにもあたらず,「じ」「ず」を用いて書く。
例 じめん(地面) ぬのじ(布地)
ずが(図画) りゃくず(略図)
ということですから、古くは二語に分解できるような語の場合、「ず」を本則としながらも「づ」を特例として許容して良いわけです。では「築く」はどうであるかと言うと、これがまたとっても微妙な感じ。
「城(き)築(つ)く」の意。古くは「きつく」とも
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C3%DB%A4%AF&kind=jn&mode=0&base=1&row=0
残念ながらこれでは出典とか根拠とか全然分かりませんが、こう書かれちゃうと二語から成っているから「きづく」としても大丈夫なのではないかと考えてもおかしくはないですよね。だから「現代仮名使いでは明確に誤り」というのはちょっと乱暴ではないかと思います。少なくとも「明確」とは言い難い状況ではないでしょうか。
こんな時こそ日本国語大辞典の出番だ!と思うわけですが、残念ながら手元にないので確認できません(日国欲しいけど、お金ないし、置く場所もありません。日国オンライン羨しいなぁ)。どなたか正解を知っている方がおられましたら御一報下さいませ。こういうの、とってもどうでもいいのは分かっているのですが、無性に気になりますよね。
追記
大変参考になるコメントを頂きました。ありがとうございます。
内閣告示まで参照されながらまだ明確と言い難い、というのがよくわかりませんが、「古くは二語に分解できるような語の場合」とは全く言っていなくて「現代語の意識」ですよね。辞書をひかないと語源に思い至らない時点で基準から外れてると思いますが。
大辞林のほうは「太字のカナで示した」と書いてあり、凡例の下のほうに「歴史的かなづかいが見出しのかなづかいと異なるものについては、見出しのすぐ横に細字の平仮名で示した。」とあります。goo辞書でも太字と細字は左側の囲みには反映されています。
IMEがちゃんと変換してくれるというのはそういう機能であって根拠にならないと思います。
現代仮名遣いの考え方自体に何か言うのであればそれはそれで一つの見識だと思いますが、「現代仮名使いでは明確に誤り」というのはまったく順当なことを言っていると思います。
というわけで、「きづく」は現代仮名遣いではない、というご指摘です。これを踏まえてさらに考えてみたいと思います。
goo辞書の太字・細字
「goo辞書でも太字と細字は左側の囲みには反映されています。」とのことですが、これは見落としておりました。ご指摘ありがとう御座います。見出しのは、h1の中でbで括ってあったんですね、なんてこった!
というわけで、大辞林においては「きづく」が歴史的かなづかいであると判断されていることが分かりました。
IMEの変換結果
「というのも、私の手元(Ubuntu 8.04のUIMなSKK)では「きづく」で「築く」に変換されちゃうからです。」のくだりは疑問を持つに至ったエピソードとして書いたつもりでしたが、今読み返すと根拠として書いているようにも読める気がします。ごめんなさい、でもこれを根拠とするつもりはありませんし、「きづく」は絶対に現代仮名遣いとして認められるべきだ!という主張をしているわけでもありません。
あと、もちろん、現代仮名遣いの考え方そのものについて何か言おうとしているわけではありません。少なくともここでは純粋に綴り方の一規則として見ています。
疑問
コメントを下さった方は「「現代仮名使いでは明確に誤り」というのはまったく順当」という事なのですが、しかし私にはまだ疑問があります。
- 「現代語の意識」について「辞書をひかないと語源に思い至らない時点で基準から外れてると思いますが。」とのことですが、これは主観的判断であり、特例の適用を妨げる要因にはならないのではないかと思います。例えば私の基準では、内閣告示に特例の適用例として挙げられている「うなずく」「おとずれる」は、辞書を引かないととても二語に分解できそうにもありませんが、この主観的判断を根拠として特例の適用を妨げることは出来ないのではないかと思います。
- 大辞林の「歴史的かなづかい」の基準と内閣告示「現代仮名遣い」の基準は一致しないと思われます。つまり、大辞林において「歴史的かなづかい」とされる仮名遣いは即それが「現代仮名遣い」でないことを示すものではありません。大辞林では「第2(表記の慣習による特例)」を反映していないか、もしくは本則のみを挙げる方針であるのだろうと思います。
大辞林についての根拠ですが、「第2(表記の慣習による特例)」の適用例として挙げられている「さかずき(杯)」を例とします。「杯」は特例の適用を受けるので、本則として「さかずき」と表記されるべきではあるものの、「さかづき」も許容されます。しかし、これを大辞林というかgoo辞書で引くと、次のようになります。
これより、「さかづき」は細字になっているので、大辞林においては歴史的かなづかいであると判断されていることが分かります。よって少なくとも「さかずき(杯)」に関しては大辞林は特例の適用を行なっていませんし、他のいくつかの適用例についても同様の状況であることを確認しました。従って大辞林において細字で示されている事をもってこれが「第2(表記の慣習による特例)」の適用を受けないと考えることは出来ないと思います。
以上の二点より、私はまだ「現代仮名使いでは明確に誤り」という断言には疑問を持っています。少なくとも特例適用の可否が分からない以上は「明確」ではないと思っています。
ただしコメントを下さった方のご意見が分からないわけではなく、もしも「第2(表記の慣習による特例)」の適用は社会状況の実際的な状況を反映する、と考えている場合(つまり現代人が一般的に語源が思い至らないような語については特例の適用を行なわない、とする立場)には、「きづく」は確かに現代仮名使いではないと判断できるだろうと思います。もしも内閣告示「現代仮名遣い」がそういう運用方針であり、「第2(表記の慣習による特例)」に挙げられている適用例のいくつかは現在既に特例から除外されている、などの事実があれば是非とも教えて下さい。
あと、特例はあくまでも例外的だから、現代仮名遣いとしては誤りとしてもいいんじゃない?と考える立場もあるかと思います。でもこの場合だと「明確に誤り」はちょっと言い過ぎなんじゃないのかなー、と思います。
というわけで、長々となってしまいまして、ごめんなさい。有り難くもコメントを頂けました(正直こういうネタはどうせ読まないだろうと思ってました!)のでちゃんと考えてみましたが、やはり古語において二語に分割できるか否かはとても重要であると思います。結局内閣告示においては「語」の定義が明確でないのが問題なのだろうとは思いますが(というかこの辺がまさに内閣告示「現代かなづかい」から緩和された部分なのかな、という気がします)、文面と適用例を見る限りは語源にまで戻って特例適用の可否を考えるしかないと思えるのですが、いかがでしょうか。